オタクは世界を救えない

『Summer Pockets』考察もどき。籠とポケットと眩しさについて

 

Summer Pockets 初回限定版

 

※ネタバレあります。気にする人は注意してください

 ちゃんとした考察とかやってみたい、と思って考え始めたものの、結局書きたいことばっかりまとまってしまったので、考察もどきです。本当は瞳さんの挙動や鏡子さんの役割、七影蝶のなんたるか、うみちゃんや七海のことについて考えようと思っていたのだけれど、もうまったく違う話を今からします。恐らく役に立つ考察にはならない……

※ちなみに普通の感想はこっち

yossioo.hatenablog.com

作品テーマについて

 話したいのはこれ。俺は麻枝准がかつて「AB!ではやりたいことを全部やった」というのを聞いて楽しみに見始めたAB!を見た結果、何をやりたいシナリオなのかまったくわからなくてガチ切れしたぐらいなので、その作品が「何をやりたいか」だけははっきりさせてほしいと思ってるし、自分でもその辺を重点的に考えて作品を見ている節がある。サマポケではどうだろうか。サマポケでやりたいこと、すなわち作品のテーマは、なんといっても「夏休み」だと思われる。ただここで重要なのは、物語終盤において、夏休みがループしていることが発覚し、最終的にうみちゃんが自らを犠牲にしながらも、主人公やしろはをループ(夏休み)から脱出させることを目的にしている点である。この辺について、いくつかの点から語っていきたい。

・「籠」と「ポケット」について

 観測者ポジションである鏡子さんは、終わらない夏休みを「籠」と批判的に表現している。
 力を利用して夏休みを半永久的にループさせていたうみちゃんに対して『自由なように見えて……それは、大きな籠の中に閉じ込められているのと同じなのかもしれない』と終わらない夏休みを語る鏡子さん。いつか終わるからこそ夏休みは良いと説き、ループして夏休みに浸り続けることを批判している。

 しかし鏡子さんが批判しているのは、あくまでも夏休みをループさせること。終わりのある夏休みはむしろ肯定的に捉えられ、その際の表現として、夏休みの思い出を「ポケット」にしまい込むといった表現がなされる。

 特に「ポケット」に関しては、タイトルや麻枝曲にも使用される重要な単語。「籠」と「ポケット」。この二つは似たような単語であるが、意味合いは決定的に違う。
 つまり、夏休みというのはそれ自体が「籠」のように大きな包容力を持つものではなく、あくまでも「ポケット」に思い出をしまってその後の未来を進んでいくような代物だということである。
 ループしなくなった世界の夏休みで、主人公は鏡子さん曰く「ポケットのよう」な蔵の中の遺品整理をする。整理をしなきゃごちゃごちゃしててわけわかんないし、したところで大して価値のあるものが出てくるわけでもない。それでも主人公はその中で、いつしか娘と一緒に作った紙飛行機を見つける。それがなんなのかはわからないけれども、大切なものだったという思い出だけは感じ取ることができる。ここでは、「思い出せない」というネガティブな印象ではなく、「思い出がある」と感じ取れるポジティブさがある。サマポケ風に言うのであれば、「眩しさだけは、忘れなかった」ことが夏休みの賛美されるべき点ということだろうか。

・「眩しさ」について

 キャッチコピーにも表れる「眩しさ」。まあ今更わざわざ文章化するほどでもないか。つまりサマポケにおける夏休みの美点というのは、そこに忘れることの出来ない「眩しさ」があったということで、実際に何があっただとか、どういった影響を受けただとか、そういう具体的なものではないのである。たぶん大抵の人間が夏休みを楽しい経験として覚えているだろうけど、その内容はきっと人によって違う。ただ楽しい、眩しい、そういった経験がみんなにあるからこそ、夏休みが素晴らしいものだという共通認識が生まれるのだろうと思う。そこにおいて、夏休みを表現する言葉は「眩しさ」ただそれだけで十分。

・夏に逃げてきた人たちについて

 この作品の冒頭は、主人公が夏休みに島へ逃げてきたところから始まる。地元でやらかした失敗から逃げるため、それらを忘れられる場所へやってきたのだ。
 そして舞台設定的にも、この作品の舞台はうみちゃんが現代から、優しかったはずの昔のお父さんとお母さんがいる時代へ逃げてきたことから始まるループ世界である。夏休みというのは、現代を生き抜く心の荒んだ人間が逃げ込む世界としては非常に都合の良い場所。しかしいつしか夏休みは終わってしまうので、普通の人間だったら現実にまた挑みなおさなくちゃいけないところを、うみちゃんは力を使って、夏休みを大きな籠として終わりの来ないループ世界を構築した。ついでに言うと、うみちゃんたちの力はあくまでも過去をなぞるだけで本来は改変などができるわけではないらしい(なんかちょくちょく改変もしてるけどそこは不思議パワーで)。なので、うみちゃんの行為はいわば思い出を振り返っているだけに留まる。オタクが昔を振り返って「あの頃はよかった……」とかやってるようなものであり、それは楽しいけれども一生籠に閉じこもってへらへらしてるのと大差ない。
 だからもっと昔、しろはの母である瞳さんは過去に戻るのではなく、未来の娘に託すために力を使った(例の力なのか不思議パワーなのか……)。またうみちゃんも、ループする世界で解決策を見つけるのではなく、ループ自体を断ち切って(=夏休みを終えることで)すべてを解決することにした。主人公はループが断ち切られた世界で、夏休みの終わり際にしろはからチャーハンを教えてもらうことになる。みんなでさんざん過ごした夏休みの思い出は眩しさしか覚えていないが、その眩しさだけをポケットに詰めた状態で主人公たちは夏休みの後の未来を進めるようになるのである。

・歌詞

 OP曲の「アルカテイル」をED曲として聴くと、非常にストーリーを反映した感動的な代物であることは、随所で語られていることである。なのであえて細かく説明したりはしないが、一つだけ触れたい。感想の方でも書いたのだけど、

『今も何度でもボクは 夏の面影の中 繰り返すよ』
 ↑が一番の歌詞。そしてラスサビが↓
『今も何度でもボクは 夏の面影の中 振り返るよ』

 となっている。夏休みが良いものだってのはみんなが知っているので、そりゃ振り返りたくなるときもある。でも繰り返してそこにしがみつくのはダメよ、と。

 で、ここではアルカテイルよりもグランドエンディングテーマである「ポケットをふくらませて」について少し話をしたい。なんといってもこの曲は原案でありみんなが大好きな麻枝准が作詞作曲しており、もちろん作品テーマにも深く関わっている曲だからだ。
 いっそ歌詞全文を載せて逐一解説していきたいぐらいなのだけど、著作権的にアレなのと普通に長くなりすぎるので、ちまちま引用していく形でやっていきたい。

 まず歌の構成として、前半は子供視点で、要約すると、「大人になんてなりたくない。この思い出を忘れるくらいなら必死にポケットに詰めて守ってやる。どこまでも続く夏休みを過ごしていたい」というような歌詞になっている。
 後半になると子供時代が終わり、「新しい暮らしにも慣れてきた。それでもきみを思い出す。もしかしたらきみは今でもあの日の眩しさのままでいるかもしれない」といった感じになる。アルカテイルはうみちゃんの曲と言ってもいいぐらいだが、こっちは誰の曲というほど具体的に作中の人物や出来事を言い表している感じはしない。

ではテーマ性の方はどうだろうか。まず前半は、ひたすら子供時代が終わることとその思い出を忘れることを危惧している歌詞で、「あの夏へ その先で待っているきみ」とある通り、「きみ」と過ごした夏に対して非常に未練を抱いていることが伺える。
 しかし後半になると、「ぼく」はあんなに嫌がっていた大人になってしまう。冒頭では自転車を漕いで頑張って坂をのぼっていたが、終盤では自転車でただ平坦な舗道を進んでいる。新しい暮らしにも慣れ、そんな中でたまに「きみ」のことを思い出すだけの大人になってしまった。どこか物足りない、そんな感じがする。

 しかし歌の終わりに、「ぼく」は「きみ」とすれ違う。何かの比喩か、あるいは麻枝だし「きみ」は死んでるのでは?とか思いもしたが、ここは素直に、大人になった「ぼく」が大人になった「きみ」とすれ違ったときの仮定だと考えたい。歌詞の最後を引用すると、

もしかしたらすれ違う きみは今でも
あの日の眩しさでいたりして
ポケットもまだ膨らんだままで

と、ある。

 仮定の中で、「きみ」は大人になっても未だあの頃の眩しさをもっているかもしれないとされている。ここにある「眩しさ」は、キャッチコピーで散々使われている「眩しさ」と同様のものと捉えてよいだろう。しかも「ポケットもまだ膨らんだまま」だという。子供時代、必死になってポケットに詰めた大切なものがまだそこに入っているのだ。あれだけ大人になるのを嫌がっていた理由は、大切な宝物を忘れてしまうからであるが、もしかしたらそうなるとも限らないのかもしれない。「きみ」が夏休みの眩しさを持ったまま、ポケットに思い出を詰め込んでいるのだとすれば、「ぼく」も同じだと仮定できないだろうか。子供時代にポケットを膨らませた、その中身が大人になっても変わらないのであれば、もう大人になることを嫌がる必要はないのである。現に、「ぼく」はたまに「きみ」を思い出している。最初はただの未練だと俺は思っていたが、もしかしたらその思い出す行為自体が、夏休みの「眩しさ」を振り返る行為なのかもしれない……と解釈したくなった。

 ただ、ここまで書いていて忘れそうになっているが、サマポケの話の中心人物は、主人公はもちろん、うみちゃんとしろはの三人家族である。その割には、この歌にはあまり「家族」の影が見えない。なぜか。これも忘れそうになっているのだが、麻枝はそもそも原案でしかなくてシナリオを書いているわけではないのだ。普段は自分のシナリオに沿った曲を作っているが、製作にあまり関わっていない状態というのを考慮して登場人物に深く関わるような曲を作らなかったのではと推測できる。
 逆に、原案者だからこそ、麻枝は作品全体に関わる内容の曲を書いたのではないかとも思う。島の夏休みに逃げてきた主人公。失ったはずの夏休みに閉じこもるうみちゃん。両親の死を悲しみ続けるしろは。そして大人になりたくない子供たち。彼らの夏休みが終わり、未来に歩み始めることをこの曲で肯定したのだ。

 ・タイトル

  「Summer Pockets」である。最初見たときはぶっちゃけダセえタイトルだなと思った。サマーという安直さ。ポケッツという叩いたらビスケットが出てきそう感。ただ終わってみればなかなか良いタイトルに思えるから不思議。
 で、一個だけ気になった。なぜSummer PocketではなくSummer Pocketsと複数形になっているのか。それはもちろん登場人物全員に夏休みの思い出があって、それぞれがそれぞれのポケットを膨らませているからだと思うんだけど、ポケットを持っているのはなにも作中の登場人物に限らないのでは、とも思う。大抵の人間、あるいは大半のオタクも、同じようにポケットを持っている。サマポケという思い出をその中に詰め込んで……とかいうと臭い感じがするが、わりとこのゲームにおける夏休みの概念や、籠、眩しさ、ポケットの考え方は、画面のこちら側に語り掛けるようでもあった。なんというか、過去のKeyを懐かしむだけで籠に囚われていた俺に、Keyはまだ健在なんだと、前に進めるんだと、そう言っているような気がしてならなかったのだ。

まとめ

 感想と考察の区別がつかないオタクです。どうも。まあ考えて察しているので一応は考察と呼んでもいいんじゃないでしょうか。

 個人的にはサマポケ考察に期待しているのは、pocketsでわちゃわちゃしていた瞳さん関連のくだりや、七影蝶なんかの明確な説明なので、最初はその辺のことを詳しく書こうと思っていたのですが、麻枝曲を聴いていたら気が変わってこういった形になりました。まあ難しい話は賢い人に任せましょう。そんな感じ。

 あとこれ、いろんな人が各所で言ってるんですけど、とりあえずKeyは健在だったと麻枝准に伝えたいですね。