オタクは世界を救えない

『MUSICUS!』感想、俺たちオタクがやっていることなんて全てクソなんだ

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 言わずと知れたOVERDRIVE最終作、『MUSICUS!』やりましたのでその感想を書きます。

 いつもは概要とか結構書くんだけど今回はその必要性を感じられないのとめんどくさいのと単純に俺自身が作品のバックグラウンドに触れるほど知識がない(OVERDRIVE作品も瀬戸口作品もキラ☆キラしかやったことない)ので、喋りたい部分のことだけ書こうと思います。

ストーリー全般について

 まずはテーマ性とかはともかくとしてエンターテイメント的な意味でのストーリーについて喋ります。

 ちなみに俺の攻略順は
 三日月→弥子→めぐる→澄
 の順。感想書くのが遅くなったのはだいたい澄を最後に持ってきたせいだけど、他を最後だったらそもそも感想書く気になったかは怪しい。

・共通ルート

 いわゆる途中下車方式なのでどこまでを共通というべきかわからないけど、まあなんとなくで。
 花井是清という絶対的な存在が象徴する音楽の世界。一般的に主人公がするべきお勉強。そして尾崎さんを始めとする暖かい人たちに囲われる定時制の学校。この三つ巴で揺れる主人公が、最後までやった今からするとめちゃくちゃ平和。普通に面白いフェイズ。まあ内面描写というかモノローグとか、あとキャラごとの自分語りとかが一文だけで画面いっぱいを埋め尽くすぐらいに書いてあったりするぐらい出てくるので、主人公が音楽を取るかどうかで悩む心情の機微は十分に伝わってきたんじゃないかと思います。
 ただキラキラみたいに文化祭で一発やってやるぜ!みたいなわかりやすいバンドモノの盛り上がりはなかったので言ってしまえば地味なのかなって感じはする。たぶん書きたいのはそこじゃないからいいんだろうけどね。

 共通部分で特筆するイベントってなんかあったかなあと思い出そうとしたら、あれがあったね。幼馴染の話。あいつマジでクソ野郎だったし最後まで救いもないんだけど、そこにフォローがないのは一般的には胸糞で、でも主人公がどうでもよさそうにしてて自分がドロップアウトする理由付けに利用してるのとかはいっそサイコパス感強調されてて面白いなあとは。

・弥子ルート

 批評空間では澄ルートとの対比があるとのことで注目され始めているこのルート。でもそこは置いといて話をすると、いい話だけど平凡だなあって感じ。

 はみ出し者たちが文化祭でライブをする。わりとよくある話で、ストーリーもそこまで突飛なことはしてないんですよね。尾崎さんが歌う理由も佐藤さんが風邪引いちゃったんでっていうだけだし、主人公が一旦バンドを離れてからまた和解する流れもなんか茶番っぽいとこあったし、最後はライブが成功! 好きな人と結ばれてハッピー! っていう、まあ捻りはそんなない。書き方が上手いのと定時制のメンツがみんないい奴で愛着を持てるのと、あと尾崎さんが天使なのとでかなり読後感は良いけど、やっぱサブルート感は否めない。

 一応作品全体で考えると上述した澄ルートとの対比だったり、唯一の音楽をやらない将来を選択するルートとしての意味合いがかなり大きいんだけど、語れるほどの引き出しがないので割愛します。他の感想を漁ってくれ。

・めぐるルート

 キャラ良し! ストーリー普通! 終わり!

・澄ルート

 一番の問題ルート。キラキラでもバッドエンドがかなり好きだったし、そもそも瀬戸口的にはバッドと呼ぶべきなのか怪しいところだけど、とにかくインパクトがあるやつ。
 ストーリーの評価としては、読後感が最悪。俺は怖いのが苦手なんだけどほとんどホラー。考察とかを抜きにするとハイパー救いがないエンドなので、ピュアなオタクはこれを最後にするのはやめた方がいいでしょう。

 花井さんのいう「音楽の神様」を追求する選択肢をチョイスしていくとこのルートに行くわけだけど、如何せん主人公のサイコパス感が強すぎる。周りの人間を切り捨て、かつてのバンドメンバーの話にすら耳を貸さないのはちょっとシナリオ上の都合が見え隠れするんだけど、主人公は敢えてそういう振舞いをして自分を追い詰めていたんだなって解釈もできなくはない。ぶっちゃけ主人公の立ち回りにはヤケクソ染みたところがあるよね。すべてを捨てて音楽と向き合ったら音楽の神様に出会えるのか? そういうお題へ挑戦するにあたり、主人公は(あるいはライターは)わざとすべてを捨てにいった感がある。その結果はどうでしょう! というルート。
 明確な文句としては、正直ここに重点を置くならもっと後の話まで書いてほしかったというのがある。音楽を追求したルートなら、追及した結果を見せてくれてもいいんじゃない?

・三日月ルート

 メインルート。ざっくり言うと、メインの割にはパワー足りてないっすね。というかここまで書いてあれだけど、正直エンタメとしての面白さでいったらそこまで評価高くはないと思う。OVERDRIVE最終作とか、みんな大好き瀬戸口廉也だとか、その辺のフィルターを通さなかったらちょっと拗らせただけのゲームになってしまうんじゃないか? という不安がある。まあいい。音楽と同じように、シナリオもまた周辺情報に左右されて評価されてしまう存在なのである。

 具体的に気になったとこを挙げていこう。まずバンドが売れるきっかけだけど、要するに名プロデューサーに目をかけてもらったからってだけ。現実ってそんなもんよ的意味合いがあるのならいいけど、ちょっと地味ですね。作中の年数でいうとそこまでに何年とかかけてるし、主人公も売れねえ売れねえ言ったり三日月放出未遂もあったりするんだけど、ストーリーとしてはやっぱりパッとしない。澄ルートでゴミクソだった主人公が、ちょっと三日月を手元に長く置いといただけでトントン拍子に紅白ミュージシャンっていうのはどうなん。

 そしてアシッドアタック事件。これに対する不満点はただひたすら、挫折の理由が「音楽云々」ではないという点。だってさあ、それまで散々音楽の神様がどうとか、感動できる音楽はどうこうとか、プロになって実際に売れてみるとあーだこーだ言って、しかも三日月はなんか覚醒しかかってるわーみたいにやっといて、結局挫折の理由がその辺の陰キャオタクアタックですよ。あまりにもだらしなさすぎる。物語の転換点としてぽっと出にも程がある。まさか「俗世の悪意によっていとも簡単に崩れ去る~~」とか意図してるわけでもあるまいに、これじゃさすがに微妙だよ。もっと前までの流れと絡めてよ。そんな雑に感動シナリオが作れるんだったら俺だって普段から硫酸持ち歩いて生活するわ。

 同じような理由で、主人公と三日月が復活する理由がスタジェネなのもそう。いやわかるよ。スタジェネが音楽の素晴らしさを思い出させるに値するパワーのあるバンドだってのは。純粋に音楽に触れて主人公が初めてのライブのことを思い出すのとか。でもそうじゃないでしょう。スタジェネだって作中の音楽としては言ってしまえばぽっと出で、それまでの積み重ねとかないじゃん。俺には思い入れがないんだよ。もっとシナリオを捻れよ、なんでもいいってわけじゃないだろ。

 そういうわけで、三日月ルートには要求されていたものが多く、また足りないものが多かったわけで、読後感は良かったし作品全体が好きなこともあってかなり面白かったけど、手放しで褒めるわけにはいかない出来となっています。はい。

澄ルートと三日月ルートの対比

 まあやっぱりこれが最重要課題だと思うのでやります。

 まず作品全体のテーマとして、花井さんが出したお題「音楽の神様はいるか?」に答える必要がある。
 つまるところ、音楽というのは単なる音の振動で、それ単体で人を感動させることはできない。聞く人がその曲や自分自身の周辺情報をフィルターとして持ち、それと曲の内容の掛け合わせによって感動することができる。だから音楽には理屈を超えた絶対的な価値をもたらす、いわゆる「音楽の神様」は存在しない。というのが花井さんの説。これを否定したい! というのが主人公のスタンスであり、それを如実に表しているのが澄ルートです。

 じゃあまず澄ルートの解釈。澄ルートの主人公は音楽だけに向き合うことによって、音楽の神様を証明しようとするのだけど、基本的に作中でそれが叶うことはない。なんなら八木原さんにも理解できんわとギブアップを言い渡されるぐらいゴミカスソングを量産するレベルで、褒めてくれるのは気持ち悪いサブカル連中と音楽の違いすらわからんメンヘラ彼女ぐらい。まあこうなってしまうのは主人公に神様を唸らせる程の才能がなかったからといってしまえばそれまでなんだけどね。
 で、主人公は最後、音楽だけに打ち込んで作った新曲の影響で、恋人を死なせてしまう。しかしこれを機に忘れかけていた感情の揺さぶりを取り戻し、恋人の死すらも音楽制作に利用してやんよ! と音楽の神様にその一生を文字通りすべて捧げる決意をして終わり、という締めくくり。音楽に人生を捧げた~なんてうたい文句は巷に溢れてるけど、それを本当の意味で実践した人間の話はまだ聞かないので、馨くんが果たしてどうなるのか気になるところ。

 でもぶっちゃけ、馨くんはこの後もサブカル受けするクソソングしか作れねえんじゃないかなと思うわけですよ。

 そもそも音楽の神様って、なんのフィルターも通さず万人を感動させられるパワーソングを作ることでその存在を証明できるはずじゃないですか。主人公はそこを間違ってる。いくら人生を捧げたかっていうのと、良い曲ができるかどうかってのは関係がないんですよ。
 そりゃ努力的な意味でいったらそうですよ、でも他を切り捨てることって良い曲を作る手段の一つであって、それを追求しても良い曲に直結するわけじゃない。それは『あまり世の中に知られていない、独自の世界観が優れたアーティスト』である対馬馨くんが既に実証してるわけなんです。

 その辺については一応、三日月ルートで答えが出ているわけで。

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 音楽ってのはハートなんですよね。音の振動なんだけど、それは心とか生き様とかその他諸々から生まれた振動なので、やっぱパッションが震えるだろうと(意訳)、そういうわけなんですよ。

 だからそっちの意味でいうと、澄が死んで感情が揺れ動いた主人公は、ニートしてただけのときよりも良い曲は書けるかもしれないけどね。

 でもここで俺は思うんですよ。じゃあ現実で色んなことを経験した方が、音楽だけに打ち込んでる『独自の世界観が優れたアーティスト』よりも良い曲が作れるんじゃないかって。
 そもそも三日月ルートの終わり方だって、結局音楽の神様を証明するには至ってないわけですね。

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 結局、音楽単体でババアを泣かすことはできなかった。でもそれは別にいい。このルートでの主人公は、神様の証明なんてしないで、ただひたすら信じることを選ぶ。

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 まあ神様って元々出会ったりするもんじゃなくて、目には見えないけど頑張って信仰するものなんで、宗教的にはそっちの方が正しいんじゃないかって気はする。

 ここがわりとMUSICUS!の評価がバシッと決まらない所以の一つで、花井さんの出したお題に対して明確に返せてないんですよね。「いるかわかんねーけど信じるしかないじゃん!」って。俺は嫌いじゃないけど、ちょっとすっきりしないところはあるよね。

 一応考えたことを話すと、今はまあわりと納得はしてる。
 まず主人公曰く三日月は、「歌うことに毎回理由付けをしてるけど、その理由がなくなっても、どうせ違う理由をこじつけて歌うことはやめないだろう」とのこと。そして花井さんの幽霊も、主人公も、最後には音楽が自分たちには必要なんだってことで結論付けてる。
 細かい理由はともかくとして、とにかく彼らには音楽が必要なんですよ。花井さんはくだらないことごちゃごちゃ考えて音楽を辞めようとしちゃったから死んでしまったし、逆に三日月も主人公も音楽が生きる活力になってて音楽をやってるから死なないでいる。澄ルートの主人公も音楽の神様を追求し続けてるからまだ死なないし、尾崎さんルートの主人公は気持ちにケリをつけるためにもまだ音楽が必要だったけど、それが終わったら音楽をやめるじゃないですか。もう音楽に頼らなくても生きていくことができるようになったからですよ。

 こうして考えると、音楽と人生には相関性があると思うわけですね。俺は。
 いきなり自分語りをすると、俺自身、音楽に関わらずストーリーとか創作物に触れるときフィルターを取っ払うことってあんまりしないんですよ。人それぞれの受け取り方ってのがあっていいと思う。たぶん作者は考えてないんだろうなぁ~って思いながら、自分の好きなテーマ性を照らし合わせて勝手に感動したりとかします。
 んで、受け取り手がそうなんだから、当然作る方も同じだろっていう。その人の人生があって、音楽がやりたくて生きてるときもあれば、生きるために音楽で金を稼がなくちゃいけないときもある。ただ楽しくて直観で作るときもあれば、世間ウケを意識して打算的に作ることもある。色んな人が好き勝手に自分の曲を褒めたり貶したりする。でもそれらの人生から出てきた音の振動を全部総称して音楽というのだから、いちいちそれを指摘する必要なんてないじゃないですか。
 そうだあれですよ。ロックンロールって人生じゃないですか。だから音楽も人生とは切って離すことはできないんですよ。
 音楽単体で感動できるかできないかなんて無粋な考えだとは思いませんか? 死んだ兄のために妹が歌ったり、普段は夜の教室でこそこそやってる連中が文化祭に出てきて自分を曝け出したり、死にかけの恩師のために必死で演奏したり、音楽に人生を捧げた大好きな恋人の曲だったり、そういう背景を含めて感動することは、そんなにくだらないことでしょうか。

 話題は変わりますけど、あとはー、あれ。バンド名の解釈をあとになって主人公が勝手に変えるんだけど、あれもそう。

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 実際に花井さんがどう考えてたとか、別にわかんないんすよね。それを言ったらそもそも、スタジェネのライブのとき出てきた幽霊だって、主人公の妄想でしかないわけで。もしかしたら花井さんはそんな考え一ミリもなかったかもしれない。地獄にいる花井さんが今の主人公を見たら、「それは違うと思うなぁ」とか言うかもしれない。でも死んだ人間のことウジウジ考えてるのより、こうやっていろんなものをごちゃまぜにしながら音楽続けてる人間の方がよっぽどロックなんじゃないすかね。

 ――はい、また澄ルートに戻ります。
 上記の理由から、澄ルートで主人公のやろうとしている「音楽の神様」への挑戦は、ちょっと的外れだなあと思うわけです。
 でも全部が間違っているわけじゃない。人生のすべてを音楽に捧げる。ロックじゃないですか。己の信念に基づいて、恋人の死による心の震えも音の振動に変えて音楽を作る。才能の無い主人公が音楽の神様に触れるため取る手段としては、まったくナシではない手段だと思います。だって三日月ルートだって無理やり信じるっていうゴリ押しで神様を肯定したに過ぎず、追及しきてれるわけじゃないんで、あのルートの主人公の思想的にはあのラストはあながちバッドとは言い切れないかもしれない。

 ただ、あそこまでする必要がないんですよね。結局。そこまでしなくたって音楽を楽しめる心は主人公たちにはあるはずなんですよ。それを三日月ルートでやってるし、そもそも神様を証明する必要ないじゃん!って話なので、やっぱり澄ルートの主人公は化け物なんですよね。見ようによっちゃ正解だけど、たぶん化け物にしか理解されないんですよ。そんな状態で誰かを感動させられる曲を書けるのかは、甚だ疑問ですね。

 あと澄ルートのエンディングなんだけど、あれは主人公の作った曲ってことでいいのかな。なんかバッドエンド用の曲って感じだからまたちょっと違うのかなとも思うんだけど、でもタイトルが「no title」だからそれっぽいよなあ。もはや楽曲に名前を付けて発表する必要もなく純粋に音楽を作るだけの存在。でもBGM枠なんだよなあ、ボーカルソング枠じゃなくて。……っていうところを気にしてるのはなんでかっていうと、澄ルートで作った馨くんのゴミカスソングが一曲も作中で流れてないからなんですよね。最も人生の多くを音楽に捧げたはずのルートなのに、そこで作られたはずの曲が一個も聴けないとは、なんて皮肉なことだろう!

まとめ

 健康な音楽は、健康な生活から